東京地方裁判所 昭和54年(ワ)11046号 判決 1985年10月29日
原告
小松とし
原告
小松昌子
右両名訴訟代理人
菊本治男
久島和夫
藤田謹也
柳原控七郎
被告
安部雍子
右訴訟代理人
高田利広
小海正勝
主文
一 被告は、原告小松としに対し金一三九〇万九四二三円、同小松昌子に対し金二七八一万八八四六円及び右各金員に対する昭和五一年一一月一三日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
三 この判決は仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
主文同旨
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
原告小松としは昭和五一年一一月一三日死亡した小松敏男(以下「敏男」という。)の妻であり、原告小松昌子はその長女である。
被告は肩書地において開業している医師である。
2 医療契約の成立
敏男は昭和五一年一一月一三日副鼻腔炎等の治療のため被告医院に通院し、敏男と被告との間に、医療を目的とする準委任契約(以下「本件契約」という。)が成立した。
3 医療事故の発生
敏男は昭和五一年一一月一三日、被告からストレプトマイシン(以下「ストマイ」という。)の溶液の注射を受け、右注射のショックにより死亡した(以下「本件事故」という。)
4 責任
(一) 本件事故当時、ストマイ注射によりショックが発生することは一般医師の間に広く知られていたのであるから、被告としてはストマイ注射前に十分な問診、予備テストを実施するなどして安全を確認すべき義務があるのにこれを怠り、漫然とストマイ注射を実施してショック症状を発現させ、敏男を死に至らしめた。
(二) 被告は、敏男の右ショック症状に対し適正な救急蘇生措置を直ちに行わず、蘇生し得べき敏男を死亡させた。
5 損害
(一) 逸失利益 金二四四三万四七九〇円
(二) 慰謝料 金一三〇〇万円
(三) 葬祭費 金四〇万円
(四) 弁護士費用 金三七九万三四七九円
6 よつて、原告らは、被告に対し、主位的に債務不履行予備的に不法行為に基づき、右5の損害のうちそれぞれ請求の趣旨記載の金員及びこれらに対する本件事故日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。<以下、省略>
理由
一原告小松としが敏男の妻であり、原告小松昌子がその長女であること、被告が開業医であること、敏男が治療のため被告医院に通院したこと、敏男が被告からストマイの注射を受けそのショックで死亡したことは当事者間に争いがない。
二<証拠>および前記争いのない事実を総合すれば以下の事実が認められ、これらの事実からすると、敏男と被告との間に医療を目的とする準委任契約が成立し、敏男が被告からストマイの注射を受けそのショックに因り死亡したことは明らかである。
1 敏男は、昭和四八年ころ鼻たけの手術を受け、昭和四九年五月四日被告の診察を受けて慢性副鼻腔炎、慢性気管支炎と診断され、被告医院において鼻の洗浄などの治療を受けるようになつた。
2 敏男は、昭和五一年六月五日慢性副鼻腔炎の急性増悪と診断され、ストマイ〇・二グラム、ムコフイリン一ミリリツトルを含む溶液の噴霧治療(以下「ストマイネブライザー」という。)を受けた。右ストマイネブライザーは、その後、同年六月一二日、一九日、二六日、七月三日、一〇日、一七日、二四日、八月二七日、九月四日と、合計一〇回にわたり実施された。その間、一時軽快したものの、再び同年八月二七日に慢性副鼻腔炎の急性増悪と診断された。そして同年九月四日には咳による呼吸困難を訴えてテオナの投薬を受け、一〇月二三日には気管支喘息による発作を訴えてネオフィリン、ダラシン等の投薬を受けた。
3 敏男は同年一一月一三日午後〇時ころ、微熱を訴えて被告の診察を受けたところ、被告は敏男の上腕部にストマイ〇・五グラムを筋肉注射した。
4 右注射後診察室を出ていた敏男から間もなく気分が悪い旨の訴えがあり、直ちに診察室のベツドに寝かせたところ、二、三回けいれんを起こし、チアノーゼ症状を呈した。被告は、直ちに強心剤を注射し心臓マッサージをする一方夫である医師安部昭二の救援を求め、同人は持参した酸素ボンベで酸素吸入をし、強心剤、副腎皮質ホルモン、呼吸循環促進剤・賦活剤を注射した。その後安部昭二が原告方へ連絡するとともに設備の整つた佐々病院への搬送の手配を行い、酸素吸入及び心臓マッサージを継続しながら、被告、原告昌子、安部昭二が同乗の上、救急車で敏男を佐々病院まで運んだ。
5 佐々病院到着後、同病院において敏男に対し人工蘇生術、心臓マッサージ、酸素吸入などの救急処置が施されたが蘇生しなかつた。同病院では敏男の死亡日時を昭和五一年一一月一三日午後〇時五五分ころと診断した。
三そこで、被告の債務不履行ないし不法行為の成否について検討する。
1 <証拠>によれば以下の事実が認められ<る>。
(一) 厚生省は昭和四三年一二月二七日(薬発第一〇一九号)、昭和四七年三月二五日(薬発第二八一号)にストマイの使用上の注意に関する文書を発し、ストマイの副作用につき耳鳴、難聴など第八神経障害、過敏症状の出現などを挙げたほか、「本剤の投与により過敏性が現われた場合には投与を中止すること」と通達した。
(二) 本件に使用された「硫酸ストレプトマイシン明治」の能書には「使用上の注意」として「本剤の投与により過敏症状があらわれた場合には投与を中止すること。」、「過敏症の既往歴のある患者には投与しないこと。」、「本人またはその血族がストレプトマイシン難聴またはその他の難聴者である場合には、本剤の投与をさけることが望ましいが、やむを得ず投与する必要がある場合には、慎重に投与すること。」と記載されている。
(三) 医学雑誌にも以下のような報告、発表がなされている。
昭和三九年度末日を終期とする五年間において全国の大学法医学教室ならびに監察医務機関で剖検された薬物ショック死の事例調査によれば、総事例二九三のうち抗生物質の注射によるものが五五例であり、そのうちストマイによるものが一二例、ストマイとペニシリンの混合によるものが五例であると報告されている(日法医誌(昭和四一年))。昭和五〇年一〇月三一日までの約一〇年間に全国各法医学教室ならびに監察医務機関で取扱われた事例の集計によれば、抗生物質の注射による事故死五八例のうちストマイによるものが二一例(ただしこのうち六例は他剤を併用)であると報告されている(日法医誌(昭和五一年))。昭和四一年以前のほぼ一〇年余りにおいて、広島県内で発生した薬剤ショックは六〇〇例(うち死亡例三六)であり、そのうち抗生物質によるショックは三一四例(うち死亡例八)で、そのうちストマイによるものは三七例(うち死亡二例)であると発表されている(月刊薬事(昭和五二年))。監察医務院開院以来一九七〇年末まで約二三年間における東京都内の薬物ショック死三四七例中、抗生剤によるものが六七例、そのうちストマイによるものが一四例であることが発表されている(日法医誌(昭和五二年))。
以上の事実によれば、本件事故当時ストマイの注射によりショックが発生することは一般の医師の間では広く知られていたというべきである。
2 被告が敏男に対して昭和五一年六月五日から同年九月四日まで合計一〇回にわたり、ストマイネブライザーを投与していたところ、同年八月二七日に慢性副鼻腔炎の急性増悪と診断され、同年九月四日には咳による呼吸困難を生じ、同年一〇月二三日には気管支喘息と診断されていることは、前記認定のとおりであり、<証拠>によれば、本件ストマイショックはアレルギーまたはアナフイラキシーショックともいわれるものであり、ストマイにかかわる抗原と、それに対抗して身体的に生じた抗体とが体内で結合して(抗原抗体反応という。)毒性物質に変化し、主として平滑筋の収縮を促す物質の体液内放出を招くものであること、ネブライザー等によるストマイの体内への投与により右抗体が形成される(これをストマイに感作されるという。)可能性があること、敏男は従来喘息の徴候がなかつたのに、昭和五一年の夏ころから急に咳き込むようになつてきたことが認められ右認定に反する証拠はないものであるところ、前記各症状の発症時期及び態様からすると、それらがストマイネブライザーに対する過敏症状の発現であつたのではないかとの疑いを生ずる。
3 <証拠>によれば、抗生物質によるショック死の症例五九のうち、注射によるものが五五例でその他が四例であり他の薬剤についても注射によるショック死例が最も多く報告されていることが認められ、更に前記甲第一五号証によれば、薬物アレルギーの特性としては連続投与よりは間欠投与、再投与、繰り返し投与などの方が感作ならびに反応惹起性が大きいことが発表されていることが認められ、前記認定のストマイネブライザーの投与から本件注射に至る経緯からすると、本件注射において薬物アレルギー発生の可能性は高かつたと認められる。
4 <証拠>によれば、本件事故当日、敏男が受診し、微熱を訴えるとともに飲み薬は胃に悪いので注射をして欲しい旨申入れたのに対して被告が本件ストマイの筋肉注射を施行したものであることが認められ、他に右認定を覆すに足る証拠はない。その際、被告が敏男に対して薬剤に対する過敏性につき十分な問診をしたか否かについては、同尋問結果中にこれまでの薬剤や食物に対する過敏症状の有無、ストマイ注射の経験の有無につき問診したところ敏男から全部過敏はない旨回答を得たという部分があり、<証拠>によれば、本件事故日についての記載のある敏男の診療録の表面右上に「薬剤過敏なし」との記載のあることが認められる。しかし他方、<証拠>によれば、被告はストマイ注射でショックが起きるのは極めて稀だと考えていたこと、前記診療録中本件事故日の記載欄には問診につき何ら記載がないこと、診療録の表面右上の「薬剤過敏なし」の記載は、敏男がストマイショックを起こした後救急処置のため転送された佐々病院において被告が書き加えたものであることが認められ、これらの事実は被告が十分な問診を行つたということに疑いを生じさせるものである。
5 <証拠>によれば、一般に過敏性については検査によつてその有無を検出することができ、その方法としてはプリックテスト、皮内反応テスト、粘膜反応テストの三法があり、これらはストマイのみでなく広く抗生物質製剤などに対する身体の過敏性を検出するために臨床医学で一般に使用されている方法であると認められ<る>。
6 本件事故当時においてストマイ注射によりショックの発生することが一般医師の間で広く知られていたこと、敏男にはストマイネブライザーに対して少なくとも過敏症状と疑うに足りる徴候の認められること、注射によるショックの発生率がストマイネブライザーの場合よりも高いことなどからすると、被告において本件ストマイショックの発生を予見することは十分可能であつたと認められるから、被告において慎重に問診し過敏症のテストをするなど本件注射前の安全確認を行い、その結果過敏症の疑いがあれば本件注射を差し控えるべき注意義務があつたと認められるところ、被告はその義務を果たさず漫然と本件注射を行つたものである。そして本件全証拠によるも右注意義務を果たす余裕のないほど本件注射が緊急であつたと認めることはできない。
厚生省の通達、能書に過敏性の予備テスト勧奨の記載はなく、<証拠>によれば、一般の医師においてストマイの注射前に過敏症のテストを行う慣行の確立していないことが認められるが、それらは前記認定を左右しないし、本件において被告の免責事由となるものでもない。
被告は敏男に対して本件事故以前に数回にわたつてストマイネブライザーを実施している。そして<証拠>によれば、過敏症のテストのうち粘膜反応テストはストマイ溶液の一滴を眼の結膜に滴下するか、鼻粘膜または口腔粘膜に塗布し、一〇ないし二〇分後塗布部分に掻痒感、異和感またはしびれ感などの自覚症状が出現したり、発赤浮腫などの変化が生じれば過敏症ありとする方法であり、ストマイネブライザーと方法が類似していると認められる。しかし、毎回のネブライザー実施後、被告が敏男に右症状が発生したか否かを検査したと認めるに足りる証拠はなくまた、昭和五一年夏以降敏男に過敏症と疑うに足りる症状の現われていること、注射の場合はネブライザーよりもショックの発生する危険が高いことからすると、ストマイネブライザーの投与のみで過敏症のテストの必要性がないとはいえない。また右のような事情からすれば、被告において仮に過敏症のテストをしたとしても陽性反応を示す可能性がないとはいえない。
7 以上の次第であるから、被告には過失があるという外なく、その余の点について判断するまでもなく、被告は債務不履行ないし不法行為責任を免れないというべきである。
四損害について判断する。
1 <証拠>によれば、敏男は大正三年一〇月二六日生まれの男子で、本件事故のあつた昭和五一年一一月一三日当時六二才であり、本件事故に遭遇しなければその後七年間は就労可能であつたこと、本件事故当時日本電波工業株式会社に勤務し、原告主張の三一九万九六〇〇円を下らない年収を得ていたこと、その収入の三割を超えない生活費を要する蓋然性があることが認められ<る>。
以上により中間利息を新ホフマン係数によつて計算すると敏男の右逸失利益は三一六万九六〇〇円×〇・七×五・八七四三=一三〇三万三四二六円となる。
2 <証拠>によれば、敏男は本件事故当時、日本電信電話公社共済組合から二〇七万六六〇〇円の年金を受領していたところ、敏男の死亡により右受領金が半分に減額されたことが認められ<る>。敏男の死亡時年令である六二才男子の平均余命は原告主張の一五年間を下らないから、その間の右逸失利益は二〇七万六六〇〇円×〇・五×一〇・九八〇八(一五年間の新ホフマン係数)=一一四〇万一三六四円である。
3 以上敏男の逸失利益は合計二四四三万四七九〇円であり、原告小松昌子がその三分の二に当る一六二八万九八六〇円、原告小松としがその三分の一に当る八一四万四九三〇円をそれぞれ相続したものと認められる。
4 前記認定の本件事故の態様、原告らと敏男の身分関係、その他本件に現われた事情を考慮すると、敏男の死亡により原告らの被つた精神的損害を慰謝するに足る金額は各六五〇万円を下らない。
5 弁論の全趣旨によれば原告らは敏男の葬儀費を支出したと認められるが損害として請求できるのは原告主張の各二五万円づつと認めるのが相当である。
6 弁論の全趣旨によれば、原告らは本件損害賠償請求訴訟の提起、追行を原告ら訴訟代理人に委任し相当額の報酬の支払約束をしていることが認められるところ、本件事案の内容、審理の経過等に鑑みると原告らが損害として求めうるのは認容額の約一割である原告主張額を相当と認める。
7 従つて、原告らの取得すべき損害賠償額は請求の趣旨記載の金額となる。
五よつて、原告らの本訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官大前和俊 裁判官高橋祥子 裁判官喜多村勝德)